バスティーユ牢獄について

京都大学仲井崇洋です。こんにちは。
今日もよろしくお願いします。
今回お話するのは、バスティーユ牢獄について。バスティーユ牢獄は、もともとは要塞で、シャルル5世の治世下に建てられ、フランス革命前には政治犯精神病者を収容した牢獄として使われていた旧体制(アンシャン・レジーム)支配の象徴とされた建物だそうです。バスチーユの牢獄やバスティーユ監獄とも言うんだとか。またバスティーユ要塞とも日本では言われるそうですが、フランス語では「バスティーユ」だけで要塞の意味があるんだそう。
フランス革命が勃発したときに民衆の暴動により襲撃されたが、このときは武器を得る目的で襲撃したとも、レヴェイヨン事件の報復だったとも言われているそう。
ただし解放された囚人は7人(精神障害者2人、文書偽造犯4人、非行貴族1人)で、政治犯はいなかったそうです。
フランス国内に3箇所あった国立刑務所の一つで、パリの東側を守る要塞として1370年に建設されたとのこと。サン=タントワーヌ地区という場所にあるので、バスティーユ・サン=タントワーヌ(サン=タントワーヌ要塞の意味)とも言うんだそう。
中世のパリ市は全周を城壁で囲まれた城郭都市であり、バスティーユはその内郭の一つにあたるみたいですね。約30mの垂直の城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけだったようです。その後、パリは人口が増加して城壁の外にも市街地が広がったことと、中世の構造物のためにバスティーユそのものが大砲の時代には軍事的価値を持たなくなったそうですが、この侵入が困難で出入口が制限される構造が刑務所に向いていると判断されたんだとか。
ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世の宰相リシュリューで、これ以降バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた者(主に謀反を起こそうとした高官たち)が収容されるようになったんだとか。
ルイ14世の時代に王政を批判した学者なども収容されるようになり、またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになったそう。
囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能で、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられたんだとか。また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていたみたいですね。
バスティーユは人間だけを収容するわけではなく、危険視された物は勅命逮捕状によっていかなる物でも収容されたそう。有名な例としては「百科全書」が押収保管された事があるみたいです。
1776年から最後の要塞の司令官はド・ローネー侯爵ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネーだったそう。バスティーユ襲撃後、要塞は解体処分されたそうです。
では今日はこのへんで。京都大学の仲井崇洋でした!